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2010/03/05

如何にして覚え違いは起こるか(自省も含めて)

最近Twitterで、福井県立図書館のサイトのあるページが話題になっています。

http://www.library.pref.fukui.jp/reference/mosikasite.html

上記ページでは、「本のタイトルがよくわからない、うろおぼえ。図書館のカウンターで出会った覚え違いしやすいタイトル、著者名など(同サイトより)」がリストアップされています。個々の事例を見るにつけ、誰にでも起こりそうな“言い間違い・覚え違い”でついつい笑ってしまうのですが、さて、これらのリストをつらつらと眺めるに、「どうしてこういう具合に覚え違えてしまう(orしまった)のだろう」という疑問が湧いてきます。私自身、物事の覚え違いや言い間違いなど再三ではなく、その度にばつの悪い思いにさいなまれたり迷惑をかけたり… というわけで、以下自省の意味も含めて考えてみます。

(学術的な考察ではなく、あくまでも遊びなので御容赦の程…)

※以下、いずれも【()→()】

■視覚による混同

楽しいわいち→『楽しい和ー』(たのしいわー)/トコトコ太郎→『とっとこハム太郎』/IQ84、1984→『1Q84』/さまよう→『さまよう』/RP法の本→PR法の本/白ロシア人と日本文化→『白ロシア人と日本文化』

いずれも本屋さんか広告で見た“あの本”、という感覚なのでしょうか。PRTRとか、“間違い探し”の感すらあります。村上春樹氏の著作は、ネットで検索をかけてみると“IQ84”でもかなりヒットするみたいです。なお『1984』では別の作品になってしまう事は皆様もご承知の通り。“白系露西亜人”なんて呼び方、現代ではそうそう聞かないし…

しらかわまさこ→しらまさこ(白正子)/かいこうけん→かいこうたけし(開高)/細平洲(ほそかわへいしゅう)→細平洲(ほそへいしゅう)/はたなかめぐみ→はたけなかめぐみ(畠中恵)/しおのななえ→しおのななみ(塩野七生)/あめみやしょりん→あまみやかりん(雨宮処凛)/「とうのさんの本」→ひがしのけいご(東野圭吾)

人名については実際間違えやすいケースが多いですね。
(私なんぞ“東野さん”とくれば、まずもって“東野英治郎(とうの えいじろう)”ですし…)

■聴覚による混同

ろんな客→『ろんな客』/ふたりはふた→『ふたりはふた』/ブラック・ジャパン→『ブラック・シャンパン』/「スコットランド日記」→『スットコランド日記』/中村屋の坊主→『中村屋のボース』/奥細道→ 『奥細道』/『福井獅子』→『福井市史』/『私のフレ』→『私のフレ』/「ドドタ」→「タタド」/「幸福の」→『幸福の

友人との世間話に上った、ラジオ・TVなどで聞いたあの本、この本。そこに脳内バイアスがかかり、似た音の異なる単語を呼び出してしまう。うろ覚えで聞きかじった呪文を間違えて、とんでもない妖怪を召喚してしまった… そんな気分。
でも、「スコットランド」は普通そう出てくるでしょうね…正式タイトルの方が間違っていそうです。逆にこれを見ていると、今度図書館に行ったとき受付で「スットコランドの地図ありますか」と聞いてしまいそうな錯覚を覚えます。「ドドタ」はどこか音楽的な変換で美しさすら感じます。「ドドタ、ドコダ?」「ドドタ?…タタド!」…こんな遣り取りを図書館でやってみたく… いやいや。
「私のソフレ」…間違えたのが“ソフレ”で良かったですね。(同じサ行でも…以下自粛)
人名の場合、ありがちですが…

佐伯チ
→佐伯チ/佐藤初→佐藤初(さとう はつ

初音はこの御方との混同は… ないか。

■語句の入れ違い

池波遼太郎司馬遼太郎 or 池波正太郎/「推定死亡時刻」→『死亡推定時刻』

これもよくある。人名で似たイメージの人物の苗字と名前の混同とか、外国人の場合姓名を逆に覚えていたり…
そう言えば、中国人名が欧文表記される場合、姓名表記が逆になってる場合がたまにありますね。作曲家の譚盾 TAN Dun も、まだあまり名を知られていなかった頃は「D」の項目に分類される事がありましたし。「作曲者のドゥンは…」といった評論が普通にまかり通っていた、あの頃(余談ながら、'90年のアジア音楽祭のプログラムでは[言票となっていた)。※[]内は1文字

■論理の入れ違い

「ハリルリ」→『瑠璃でもなく、玻璃でもなく』(A∧B→¬A∧¬B)/ねこのとうさん大ピンチ→『ネズミ父さん大ピンチ』(対立概念の交錯)/『そば屋再襲撃』→『パン屋再襲撃』(類似概念の交錯)

次項目とも共通する点は、大まかな表題なり内容なりのイメージがある事。この場合は、その関係性がどうなっているのかが曖昧であったり、別の関連する何かと取り違えたケース。
大バッハのカンタータ『心と口と行いと生活をもって(Herz und Mund und Tat und Leben)』―〈主よ、人の望みの喜びよ〉で有名―を思い出すのに「ほら、バッハのあの曲…“口と鼻と手と…何とか”っていう」といった遣り取りになる事も再三ではない。
『そば屋再襲撃』…落語ネタでいけそう。

■先入観による脳内翻訳

限界を
知らない生き方→『限界を作らない生き方』/左腕のない男→『片腕をなくした男』/「“半島へもう一回行ってみたい”みたいな本」→『半島へ、ふたたび』/「人は見た目が7割」→『人は見た目が9割』/「あたしのいえ」→『わたしのおうち』/りきゅうにきけ→『利休にたずねよ』/『いきにくさについて』→「生きづらさ」について/いけずの京都→『ナマの京都』/『払わない』というタイトルの本→『払いません。』/「獄」→『獄』/『もたれない』→『倚りかからず』/「魔女の玉手箱」→『悪女の玉手箱』

この一連の事例を見たとき、これらの表題で誤認された方々のその時の感情なり想いなりが垣間見えます。「人は見た目が7割」と覚えていた人は、きっと(少なくとも)作者よりは他人を見た目だけで判断しない感覚をお持ちなんだろうな、と、ふと心が和む思いがします。「いけずの京都」…“ナマの京都”でぶぶ漬けでも出されたのでしょうか。「払わない」は、正式タイトルよりも日本人的奥ゆかしさがどこか漂っているようにも感じられます。「魔女の玉手箱」―こちらの方が夢があって愛嬌がありそうな雰囲気です。
 

こうして見ていると、間違う事が悪いとか恥ずかしいとかではなく、その間違える過程に見える人間臭さが、これらのリストを見る者をどこか和ませてくれるように思えてならないのです。

“Je me trompe, donc je suis.”

こうしたリストをまとめて下さっている図書館司書の方々のお仕事に敬意を表しつつ本稿を擱きます。

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